すでに陽は落ちている。
昊は紺青に染まり、燈篭の灯りはあれど、いくつかの星も見えた。
そして視線を地上に戻すと、楸瑛はその薄闇のなかにぼんやりと浮かぶ、見慣れた背中がたたずんでいるのを見つけた。
「絳攸?……もう今日は帰れるんだろう?」
迷っているのかと思ったが、彼は正しい――軒が待っているであろう方角を向いていたし、その最短距離であるこの路にいた。
此処は官庁舎が建ち並ぶ通りの一角である。終業の鐘が鳴ったのも久しく、そんなに広い路ではないせいか、辺りに官吏の姿は殆どない。時々、衛士の姿を見るだけである。
「絳攸……」
何故か、声を掛けても振り返る気配がない。
立ったまま寝てるなんてまさか、と不思議に思いながら、彼の顔が見える位置に回り込む。
案の定、彼の両の眼は開かれていた。しかし、楸瑛のほうに向けられることはない。
じっ、と城下に出る通用門のほうに向けられたままである。
楸瑛よりも二つ年下の、まだ大人というにはほど遠い幼ない顔立ち。
路の明かりに照らされてその陰影が濃くなり、色素の薄い瞳の奥がちらちらと瞬くのを見出せば、
――人形のようだ、と楸瑛は一瞬言葉を失くしてそれに見入った。
(……綺麗だといえば、綺麗――だけど)
絳攸の目線の先を追っても、楸瑛には何も見えない。其処には闇だけ。……その闇のむこうに何があるというのか。
「絳攸!」
突然、えも言われぬ不安に襲われて、楸瑛は絳攸の腕をとった。
「楸瑛……?」
今気づいたというように、絳攸が楸瑛を見上げる。
「どうかしたか?」
不思議そうな表情に、楸瑛は心なしか安堵し、そして脱力した。
「どうかしたって……、いや、何でもない。見かけたから、まだ帰らないのかと思って」
「ああ…」
そして、絳攸はまた遠くに視線をやってしまう。
国試のときから感じていたが、楸瑛にはこの少年がどうしても危なっかしくて放って置けなかった。それは、迷子症の所為とばかり思っていたのだが。
「何だろう」
「うん?」
「自分でもよくわからない。でも、足が止まってしまう……」
「家に帰りたくないってこと?」
その気持ちよく分かるけど、とは言わない。絳攸は、困ったように言葉を探している。
「そんなことはない、と思う」
「だろうな」
絳攸の養父母に対する敬愛は並みではない。それはよく知っている。
「……君の家の馭者も待ってるよ、行こう」
さあ、と楸瑛は絳攸の手を引いた。――進士を経て配属が決まったのはついこの間のこと。慣れない環境に、この残業では疲れていないはずはない。もし、明日が休日だったなら、寄り道をさせても良かったのだが。
待ってる、と楸瑛の言葉をポツリと繰り返して、しかし、絳攸の足は動かなかった。
「……本当にどうしたの」
「……たら、どうしよう」
「え?」
「待ってなかったら、どうしよう」
「居なくて、もし、ずっと待ってても来なかったら?」
「絳攸?」
その瞳が心細そうに揺れている。
楸瑛は珍しく焦った。こんな絳攸は知らない。迷子になっている時も、ここまではならない。――彼は迷っていることを認めたりしないから。
――この子は何を恐れているんだろう。
訝しげな楸瑛の表情に気づいて、絳攸はきまりが悪そうに顔を俯かせた。
「悪い。変なこと言った」
「いいよ。大丈夫?」
こくり、と絳攸が頷く。楸瑛は引こうとしていた腕を放し、手のひらに握りなおして、絳攸に並んだ。そして歩き出す。
「しゅ、楸瑛!」
絳攸が恥ずかしそうに慌てる。
「だーいじょぶだよ。滅多に人いないし、この暗さだし」
楸瑛は思い出す。彼の弟は変わっていたから滅多にしなかったが、彼自身は三人の兄とよく手を繋いで歩いた。楸瑛には当然二本の腕しかなかったので、兄たちとは世話しなく交代しなければいけなかったけれど。
何だか楸瑛は楽しくなってきた。歩みも弾む。
「もし、君の家の軒が無かったら、うちのに乗ればいいよ」
困り果てながら、そういうのじゃないんだ、とぼそりと絳攸が言う。
「じゃあ、軒が来るまで私が一緒に待っていてあげる」
「……朝まで来なかったら?」
「そのまま出仕すればいいだろう」
あはは、と楸瑛は笑ってみせる。
「でももし」
「もし?」
「本当に軒も家の人も黎深殿も来なかったら、藍家(うち)の子になったらいいよ」
「は?」絳攸が目を丸くした。
「そうしたら、私が送り迎えしてあげるからね」
「……馬鹿じゃないのか」
そうしてまた俯いてしまう。だがそれは単純な照れだと楸瑛は思った。先程の人形のような面影はどこにもない。
「酷いな。私は結構真剣なのに……ああ、ほら」
あれじゃないのかい、と指差せば松明を燃やす外用門と連なる軒の姿が見えた。
紅家のものがあったのだろう、それを認めた絳攸の表情に明らかな安堵の色が広がってゆく。
楸瑛は足を止めて絳攸の手を放した。
「あ、ありがとう。気を、遣わせた」
少々つかえながら絳攸が礼を言った。楸瑛は笑って答える。
「気を遣ってなんかないよ。言っただろう、本気だから」
「え……」
「君が、君の行きたい処まで行き着くのを見守るのが、私の役目だとも思ってるから。いや、今、そう思った、かな」
「なんだそれ」
絳攸が怪訝な貌をする。
「さあ、先に行ってくれ。紅藍がそろうと何かと気まずい」
楸瑛が促すと、絳攸は納得していない表情であったが、歩き出す。
「またね、絳攸」
「ああ、また」
――きみは、迷っても立ち止まっても、けして後ろを振り返ったりはしないのだね。
ならば、最後まで見届けようか。この手は今は、空いているから。
楸瑛はその小さくなって行く背中を見送りながら、絳攸の背負うものに思いを馳せた。
25と27だとあんまり変わらないような気がするけど、16歳と18歳だと結構違うんじゃないかなあと思ってみたり。特に絳攸は人格形成が遅そう(笑)苦労人だけど。
タイトルは造語です。星にしたがう。星しだい。
まだ劉輝即位前の話。