燭台の明りを頼りに本を捲っていると、不意に古典の一節を諳(そら)んじる声が聞こえた。
「――昔、聖王の政を為すに、徳とならべて賢きを尊び、能あらば、農工につらねる者といえども之を挙げる。
高き爵位をあたえ、重き禄をあたえ、事を以って之を任せ、之の令の断(さだめ)るをあたふ。――続くその意味は?」
「ええと、高い地位が無ければ民は尊敬せず、俸禄が厚くなければ民は信用せず、政は断行しなければ民は畏怖しないから、です」
「いいだろう」
「玖琅様!」
「室に戻る途中だったのだが、明りが漏れていたのが気になってな。…こんな遅くまで勉強しているのか?」
足の踏み場もないほど書物が積まれた床の上を、その合間を縫いながら、玖琅がそろそろと絳攸の部屋に入ってきた。
絳攸は驚きながら椅子から立ち上がって、血の繋がらない叔父を迎えた。
玖琅は黎深の代理として新年の朝賀に出席するため、貴陽を訪れていた。晩餐を共にし、絳攸は部屋に引き揚げたが、その後は黎深と食後酒を楽しんでいたはずだった。
黎深より若いが、年齢にそぐわない貫禄が玖琅にはある。彼に対するとき、絳攸はいつも緊張した。
「ああ、いい。邪魔するつもりは無かったのだが」
そう言って、自身は立ったまま絳攸を座らせる。
「このような薄暗い中では目を悪くする。もう寝るか、灯を増やすかしなさい」
平時からその表情は感情に乏しいが、その内面は機微に聡く、絳攸のような子供でも対等に扱ってくれる優しい男だった。
――養い親と実の兄弟だということが今でも信じられないくらいに。
絳攸は玖琅と対するのは緊張するが、嫌ではなかった。彼は人格者であったし、二十歳を越えるか越えないかの若さで紅家の実権を握らんとするその手腕に、尊敬の念を持ってもいた。
そして、政治や歴史を学べば学ぶほどに、彼の凄さが判るのだった。
「国試を受けると聞いた」
「はい」
「なかなか見込みがあると、黎兄上が言っていた」
「本当ですか!?」
黎深は時々勉強をみてくれたが、その評価は厳しく、いつも散々に打ちのめしてくれた。
・・・・・・本当は、黎深が絳攸に分かる言葉と理論で講義したという事実こそ、奇跡に近い出来事であるのだが。今の絳攸にはそこまでは分からない。
「一度だってそんなことを言っていただいたこと無いです……」
思わず絳攸の頬が紅潮する。それを見て、玖琅は眉根を寄せた。
「官吏になりたいのか?」
「はい」
間髪を入れずに答えた絳攸に、今度は溜め息を吐く。絳攸は不味いことを言ったかと冷や汗をかいた。
「あ、あの、やはり分不相応な望みでしょうか」
「いや、違う。そういうことでない」
すまないと玖琅は手を振る。
「……お前は、飢えの苦しさや、貧しいことの惨めさを知っているな?」
「……はい」
紡がれた言葉に、絳攸は頷いた。その事実は自分にとって決して恥かしい事ではなかったが、何故かそのまま、顔を上げることが出来なかった。
その頭を玖琅の手が触れた。――あたたかくて、大きな手。それは、黎深や百合の手とよく似ている気がした。
絳攸がやっと顔を上げると、玖琅の深遠さを湛えた視線とぶつかった。
「私は、そのような者に紅州のために働いてもらいたいと思っていたのだ」
「玖琅様」
絳攸には何と言ったらいいか分からない。
「勿論、政の才が無ければ話にならんが。だが兄上はお前に見込みがあるといった」
「……」
分からない。
ただ見上げてくる少年に、玖琅は首を振った。
「中央官吏になりたいというのなら、止めはせん。・・・・・・さっきの『尚賢上』、」
「はい」
「あれは、運命論の否定だ。貴族に生まれたから、平民に生まれたから、といって未来が決まるわけではない。お前も、黎兄上に拾われたからといって将来まで決めてしまう必要はない。そういう意味では、その才を使って好きに生きればいいということだ」
「?」
言葉の意味からすれば、ここは礼を言ってもいいところだが、絳攸は玖琅の雰囲気からそれを躊躇った。案の定、玖琅の言葉は続く。
「だがしかし、だ。『尚賢上』の本来の意味は、能力を持った者こそ上に立て、ということだ。支配者は登用に力を注げ、と」
既に意味と文句はほぼ暗記していた絳攸は頷いた。
やはり玖琅は自分の能力を認めてくれていて、尚且つ自分の下に来ないことを惜しんでくれているのだった。その喜びか、じんと胸の奥が熱くなる。
一方の玖琅は内心で苦笑していた。
――突然出来た甥っ子は、官吏になることで次兄の役に立てると信じている。だがきっと、兄にとってはそんな事どうでもよいに決まっているのだ――。
玖琅は床の上の書の山や、積まれた写本を見やる。また、溜め息をしたくなった。
国史誌に七経、太学、四門学……。古典や作文に使うのだろう詩句集などもある。
(この子供は、普通の人間が二十年三十年かけて築くものを、この数年で成そうというのか)
自分のすぐ上の兄は紛れも無く天才だった。その点においては誰も及ぶべくもないが、しかし、単純な知識量であれば、絳攸はいつかその兄を越えるかもしれないと、玖琅は思う。
それを考えると浮かぶのは、
(惜しい)
という結論だった。
絳攸は兄が拾った。いわば兄の所有物で、玖琅にそれをどうこう言う権利は無いし、言うつもりも無い。思うのはただ一点である。
(このような原石を国王にくれてやるのが惜しい)
次兄ほど王家を毛嫌いしてはいないが、いつだって玖琅は紅州が一番大事だ。
――有能な人材は掛け替えのない財産となる。そのための教育ならば、どんな事であっても惜しまないのに。
黙りこんでしまった玖琅をいつの間にか絳攸が見上げていた。その不思議そうな表情はまだまだ子供のそれだった。
(仕様が無い。黎兄上も、ゆ…義姉も何も言わないのだ。私に何が言える?――そして)
「……まあ、やれるだけやってみなさい」
(私だって、甥が可愛いのだ)
「はい!ありがとうございますっ」
玖琅の言葉に絳攸は深く頭を下げた。そして今度は真っ直ぐに顔を上げ、嬉しそうにはにかむ。
それを見た玖琅の表情も僅かに――それでも大変希少だが――笑み崩れたのだった。
とはいえ、書き下し文ではなく意訳になるので勉強にはなりません。
玖琅の解釈も当てにしないほうがいいかも(苦笑)
まだセンカ王の時代。
結婚してるかどうかわかりませんが、玖琅にはもうお嫁さんになるひとがいるんですよね。
でも、末っ子なので絳攸のことがかなりかわいいんじゃないかとか、そういう妄想。