EX.月と天才 ――The moon goes round the earth
「オリオンまでの距離を思えば、72時間の徹夜なんて取るに足らない。
そう思わないか?」
そう云いながら、しかし、同僚の目は据わっている。――その視線の先にあるのは、壁に吊るされたカレンダーに添えられた、北極星を中心とした光跡写真だ。長い時間をかけて撮られたそれは、紺のような群青のような不思議な色の夜空と、光の流線の組み合わせが美しい。
「……悪いけど絳攸、それ全然フォローになってないから。あんまり巧くないし」
楸瑛は疲労の極めた頭を、がっくりと落とした。目を閉じても、errorの文字が瞼の裏に貼り付いている気がする。
――時計は午前1時を過ぎていた。ああ、新しい今日が来てしまったと、楸瑛は思
う。カレンダーにひとつ、十字を書き足さねばならない。数字の羅列を見て、そっと息を吐いた。
(どれだけが技術が進歩しても、このスタイルはあんまり変わらないんだろうな。……これからも、たぶん)
研究所の楸瑛たちに割り当てられた研究室兼実験室である。電子機器を優先させたその部屋に窓はなく、実際の夜空を眺めることはできない。
いまなら、南の空にフォーマルハウトが視えるはずだ。研究所本部は山間にあって星を観るぶんには街の明かりが邪魔にならないが、低い位置にあるフォーマルハウトを観るためには車で山頂まで登らないといけないかもしれない。
「今日は満月だな」
また絳攸がぽつりと言った。カレンダーの月齢表を見て言ったのか、それとも絳攸の頭の中にもう入っているのかは楸瑛には判らない。
「黎深様は元気でいらっしゃるだろうか」
――確実に今の君より元気だよ。楸瑛はそう思ったが、口には出さなかった。
黎深は現在、月の人口移植計画のために現地に赴いている。すでに居住プラントは完成していて、残る課題は地球資源に頼らず、プラントと月だけで居住者のライフサイクル・システムを完結させられるかどうかだという。
ちなみに、いま楸瑛と絳攸が徹夜で作業しているのは、月の空港(勿論宇宙船専用である)の管制室で使用する、発着誘導システムの調整である。やはりというか、なんというか、黎深のお達しだ。
「――しかし、黎深殿がまさか月に行くとはねえ」
楸瑛の知る彼の性格を思えば、『面倒だ』の一言で蹴飛ばしそうな気がした。しかも、月面開発計画の最高責任者を引き受けたという。それが、もう二年になるはずだ。
「ああ、あれな……」
絳攸が力なく笑った。その視線は確実にカレンダーより遠い所にある。
「あれ、なんかワケありなの?」
そして彼はゆっくりと楸瑛を振り向いた。
「……聞きたいか?」
「俺の従兄妹がな、昔、黎深様に言ったんだ」
「うん」
「『月にうさぎさんがいるんだよ。おじちゃん知ってた?秀麗ね、みてみたいの!』」
「……」
「……」
「まさか……」
「そのまさかだ。姪っ子に月で生息する兎を見せるためだけに黎深様は月に行かれ
た」
俺を置いてな。同僚の眼尻に光るものがあった気がするが、楸瑛はそれよりも衝撃の事実に何も言えなかった。
月面開発は文字通り全人類が注目するプロジェクトだった。プラントの居住権の獲得に、世界の裏側では物凄い額のカネが動いている――と楸瑛は兄達から聞いている。月の別荘は金持ちの新しいステータスになるだろう、と。
絳攸の影の差す笑顔が痛々しい。しかし、笑うのが正解だというような気がする。
――それくらい、馬鹿馬鹿しい真実だった。
「しかもな。話はそれで終わらないんだ」
「え?」
「これ見てみろ」
絳攸が、手元の端末のキーを叩く。そして、ディスプレイを指差した。
楸瑛が覗き込むと、そこには黎深からの絳攸宛てのメールと一枚の画像が映し出されていた。
「……ええ?」
title:見ろ!
そこに映っていたのは。兎だった。――黎深は成功したらしい。それはめでたい。
だが――
「これ……」
楸瑛は絳攸を窺い見た。彼はみなまで言うなというように頷いた。
「二日前に届いたんだ……」
「……うん」
それは、確かに兎だった。足は四本。二本の耳は長く、ふわふわの毛皮に包まれている。
しかし――
「…大きいね」
「ああ。大きいな」
静止画像は兎と黎深のツーショットである。得意そうな笑顔の黎深の隣りで兎が後ろ脚で立ち上がっている。
その顎が、ちょうど黎深の肩の高さだった。
(2メートル?)
「……黎深様の配合した飼料と、月の低重力がうまく作用したらしい」
「……」
「どう返事をしたものか困ってな」
そうだろうと楸瑛は思った。正直に言って――
(――これは、怖いよ。小さな女の子見たら泣くよ、絶対。)
「とりあえず、秀麗には一番最初は兎の周りに何も置いていない写真を撮って見せたらいかがですかと、送っておいた」
「ああ……そうだね」
楸瑛は、年下の同僚は本当に頭がいいと、しみじみ頷いた。
世界の俊英が集まる宇宙開発研究所でも3本の指に入ると言われる天才、紅黎深。冷徹非情科学者・氷の少将と同じ所員からも恐れられる彼が実は、兄と姪命であることを知る者は少ない。しかも、その愛が何時も悲しい方向に空回りしてしまうと知る者も――以下略。
「……今夜はもう寝てもいいんじゃないかな」
「奇遇だな。俺もそう思ったところだ」
そうして二人は、研究室を後にしたのだった。
――その途中、窓から決して空を仰がないようにして。