その時、<彩雲>のブリッジは恐慌状態に陥っていた。オペレータの一人が悲鳴を上げる。
「何者かに<スミレ>が操作されています!新たなコマンドを受け付けません」
「ばっかやろう、俺抜きにそんなこと出来る奴らは限られてんじゃねえか!黎深の馬鹿はどうした!!」
「呼びかけに応答ありません!」
「息子は!!」
「こちらも行方不明です」
「何だとぉ!」
「お忙しいところすいませーん、整備班っス。三番ドックの扉がロックかかってて開かないんスけどー」
「え?あれ!?いつの間にか<Azure>の格納用リフトとカタパルトが手動操作になってる。ちょっと待て<Azure-1>からのレスポンスがないぞーー!」
「おや、藍楸瑛も噛んでるのでしょうか」
「落ち着いてんじゃねえ、陽玉!」
「貴方がはめられたのが悪いんでしょう」
「濡れ衣だっつってんだろーー!!」
「だから、日ごろの行いが…」
「うるせー!誰かあのアホ親子を探せーー!!」
5.Letter
<Azure-1>の機体が、無事に<エヴァ・グリーン>の船胴に電磁アンカーによって固定される。それを確認しながら、<Vision>の接続を<Azure-1>から楸瑛自身へと切り替えた。計器類の並ぶコックピットへと新たな視界が開かれる。
現在、絳攸は楸瑛と彼に取り付けたヘアクリップを通して視界を共有している。
これが絳攸が<Vision>開発において、もうひとつの命題として掲げていた<Vision>のパーソナライズ機能である。
その成果として、今、楸瑛は火星から木星への小型機による単独航行に成功したのだった。
――いつから、こんなに貪欲な人間になったのだろう。それとも、これが自分という人間の本質なのか。
どうして、満足できない。
愛すべき家族がいて、やかましいが信の置ける仕事仲間がいて、年齢の割りに破格の地位にいて、評価もされて。
その上、毎日、上等な食事がだされて、安全な寝床があって、美しい星空を眺めて過ごす。
それなのに、心はいつもどこかで"何か"を求めていた。“何か"がずっと足りない気がしていた。
昔の記憶がないから?そんなものは根拠として不適当な気がした。――何故なら、それがどんなにいいものなのか、自分は知らない。それならば、思い出さないほうが幸せかもしれないではないか。たとえ、よいものだったとしても、それは同時に、失った悲しみをも自分にもたらすだろう。そんなのは気が重いだけだ。
しかし、どんなに自分を納得させてみようとしても、心には小さな穴が開いていて、どんな理由でも埋めることができず、微かな風が吹き込んでは、また抜けていった。そして、そんな自分を自覚したとき、心はいつの間にかかの星のことばかりに向けられていた。
考えたことは、『李絳攸』としての人生に、足りないものなどあるはずがないということ。
ならば木星にあるだろうか。
『絳攸』ではなく、『コウ』だった自分がすべてを失ったあの星に。あの、船に。
何かがある、という確証など何もない。
むしろ、何も残っていないということが既に報告されている。
それでも、行けば、何かが得られる気がした。
――諦めがつく気が、した。
諦めがついたら、今度は、誰かのために生きようと思った。
もしかしたら、地球には自分の居場所はなくなっているかもしれないけれど、自分の仕出かしたことの、償いはしなければならない。
失うものは、何もない。今度はちゃんと、覚えているから。
エネルギーの通わぬ廃船。メインコンピュータも機能停止、即席の復旧も望めず照明も重力も存在しない。その中を、破けた船壁から注ぐ太陽からの光と、手元のライトを頼りに、楸瑛は進む。
木星の衛星軌道上を漂遊する探査船<エヴァ・グリーン>。人類が初めて“妖”と遭遇する舞台となったこの船は、悲劇の象徴として、或いは命を落とした者達の墓標として、研究員の間でも触れることがタブーとする風潮がある。そもそも、航宙技術の発達した現在でも地球から五億キロメートル離れた此処まで来るのは容易なことではな
い。多くの人間がこの船の地球への回収を望んでいたが、それもまた未だ叶っていな
かった。
楸瑛のよく知る<彩雲>のように、この船もたくさんの人々を乗せて宇宙を旅した。しかし、それがたったの十数年前の話だというのに、船内はひどく殺風景だった。
船体に固定されている机やベッドなどはそのままである。ただ、それ以外の、存在したはずの、たとえば、ペンとか、マグカップだとか、工具や毛布などの道具のあらゆるものが見当たらない。
人に忘れ去られた住処の、空虚さだけが続く。
回線の向こうの絳攸は何も語らない。聞こえるのは耐圧スーツに反響する、自分の呼吸の音だけ。
(この船がばけものに食い破られたとき、たくさんのものが宇宙に流れ出してしまった)
辛うじて、留まっていたものも、「遺品」としてすべて回収された。
(何も、残っていない)
(死体も)
(その痛みを知るものさえ)
食堂だろう、長机が並ぶ広い部屋に立ち、楸瑛は瞑目する。
闇冥に消えた声や、明かりや、ひとの生活に、想いを馳せた。
「絳攸、君の欲しいものは本当に此処にあるのかい……?」
『楸瑛、その奥の階段を降りてくれ』
絳攸の声が直接楸瑛の頭に響く。その階段は楸瑛の歩いていた通路の先の暗がりの中にあった。
「……何があるの」
『動力室。俺が発見された場所だ』
十三年前に<エヴァ・グリーン>が“妖”に襲撃され、通信の途絶えたその船に<彩雲>のスタッフがたどり着いたのは、事件から十日ほど後のこととなる。その時には既に、船体は半壊し、メインコンピュータも機能停止。乗組員の「遺体」はひとつも発見されなかった。そして――ただ一人の生存者である少年が船底で脱水症状と栄養失調による意識不明の重体の状態で救出された。
当事者である絳攸は、その時の記憶は何一つ持っていない。他の乗組員が船体の中でも特に頑強な構造をしている動力室に、当時十代の少年だった絳攸を避難させたのではないかという憶測がなされ、当時の巷では悲劇の中の美談として話題になったのを楸瑛は覚えている。ちなみに絳攸本人は世間と隔絶された状況にいたので知らないし、後になって知った今も、どうしてその助けた本人も避難しなかったのかと、その憶測自体に疑問を持っている。
そんなことを思い出しながら、階段の手すりにつかまり滑るように階下に下りると、楸瑛は動力室の扉の前まで来た。
楸瑛のライトの光に照らされて、重厚な扉が浮かび上がる。覗く小窓の先はやはり闇。勿論エンジンの音はしない。この奥で幼い絳攸が苦しみに耐えていたのかと思ったとき、何故か楸瑛の背中にらしくもなく悪寒が走る。
『……嫌か』
楸瑛の生体情報も把握している絳攸が、遠慮するように問うてくる。見えているはずはないのに楸瑛は笑ってみせた。
「そんなことはないよ。行こう」
『……入って右側に非常灯のスイッチがあるはずだ。ここのはまだ使えるかもしれ
ない』
「わかった」
そうして、楸瑛は重い扉を押し開ける。接続部品や液体電池が劣化しているのか頼りなく、しかしそれでも室内を照らし出した青白い光に、楸瑛はそっと息を吐いた。
楸瑛の眼から映るその光景を目にしても、驚くほどに絳攸には何の感慨も湧いてこなかった。特に注目すべきものもない。そのことに少し落胆したが、同時に安心もした。実は、動力室の映像は黎深に引き取られたばかりの頃にも目にしている。今回もその時と同様、何も思い出さない。
反対に楸瑛は酷く緊張しているようだった。絳攸の過去を思っているのだろう。
――優しい男だと、思った。自分の我侭に付き合わせてしまった。――ここから出たら存分に望みを叶えてやろう。それで、ここに来た意味も少しはある。
「楸瑛、此処はもういい――じゃあ、あと一箇所だけ――
そして最後に訪れたのが、プライベートルームだった。接する通路の窓から木星を反射した光が注ぎ、ライトが不要なくらいには明るい。
しかし、『コウ』とその家族が過ごした――その部屋も、楸瑛には何も残っていないように見えた。簡易二段ベッドが二台。他には書き物用の小さな机だけ。歩くスペースもほとんどないほどに狭い、だが宇宙で生活するものにとっては当たり前の部屋だった。
「どう?」
『……』
絳攸の返答はない。
「……此処で君は寝てたんだねえ」
楸瑛は手持ち無沙汰になって片方の二段ベッドへと腰を下ろし、そのまま倒れこんだ。
その刹那――
『あ』
楸瑛と絳攸の声が重なった。
『写真?』
楸瑛の寝転んだベッドの天井――上段の底板にあたる――にピンで一枚の写真が貼ってあった。遺品と呼ばれるものはメモ書きの一片まで事故後の調査で回収されたはずである。誰かが見落としたのだろうか。
ベッドの横幅をほぼ占める大きさだったが、状態は良く、何が映っているのかはっきりとわかる。
それは、天体写真だった。何処の宙域かは判断がつかない。だが、よく見ると何かが書き込まれている。
“おとうさん”
“おかあさん”
“ぼく”
「なんだろう、これ。君の字かな」
ライトを取り出した楸瑛がよくよく眺める。
『だろう。きっと』
「持って帰ろう」
『……ああ』
そうして、楸瑛がグローブ越しの手で慎重にピンを外し終わったとき――写真の背面からぱさりと何かが楸瑛の腹に落ちてきた。
「ん?」
それは一枚の封筒だった。
「遺書……?」
宇宙を旅するものにとって、遺書を携帯することは珍しいことではない。封筒には何も記されていなかったが、察しはついた。ただ、十歳そこそこの子供にも当てはまるかといえば、疑問が残る。
「もしかして、君の?」
『まさか……?』
とは言いつつ、絳攸も疑問系で返す。楸瑛は起き上がり、陽の下に出て、封筒を開けた。
「“コウへ”――君宛だね」
『……』
そこには、父親か母親か、或いはその両者が息子に宛てた言葉が綴られていた。それは、何でもないことのようだった。
地球でキャンプをした思い出、置いて来た飼い犬のこと、『コウ』が試験で満点をとった時どんなに誇らしかったか。
そして――
「――“もし、お父さんやお母さんとはなればなれになってしまっても、どうか元気で。
――何光年離れていても星の光がとどくように、私たちはあなたのことを
見守っている”」
幸せに。私たちの光
「……見える?絳攸」
囁くように、楸瑛が言った。だが、それに対する返事は無い。しかし、声は届いているはずだった。
「ねえ、絳攸。これが――君の欲しかったもの?」
楸瑛は答えを待つ。そして、しばしの沈黙の後――
『――』
それは、絞り出すような――