「楸瑛、お前、<Azure>大事だろう?」
「なんだい、突然」
  ふらりと自室にやってきて唐突に質問してくる絳攸を起きあがったベッドから見上げながら、楸瑛は肯定した。
「それは、大事だけど。命預けてるし」
「それだけか」
  絳攸は室内に踏み込んでは来ず、入ってきた扉によりかかって無表情に楸瑛を見つめている。
  楸瑛にはどうにも絳攸の意図が読めなかった。だが彼に対して誤魔化しても仕方がないので、楸瑛は素直な気持ちを言葉にした。
「私が宇宙(ここ)にいる理由だよ」
  それを聞いた絳攸は頷いた。
「じゃあ大事だな」
「だからそう言ってる」
  意味が分からない、と楸瑛が首を傾げると、絳攸は携帯端末を<彩雲>滞在用スーツのズボンのポケットから取り出して楸瑛に掲げて見せた。
  そのディスプレイにはこの<彩雲>に格納されている楸瑛の愛機と、一人の若者が映っている。その格好からして整備士ではない。パイロットでもない。彼は――絳攸と同じ研究員だ。そして、彼の足もとには何かが積まれている。しかし画面からはそれが何か判別することはできなかった。
「なあに、これ」
「お前の<Az‐1>と、その隣に待機しているのは俺の部下、碧珀明だ。いつでもお前の愛機を碧家流美的感覚で彩色できるようにスタンバイしてくれている」
  楸瑛は思わず身を乗り出した。では若者の足もとに積まれているのは何かの顔料か。
「なんで!」
「頼みがある」
  絳攸は端末をポケットにしまって、言った。
「頼みって・・・私を脅迫しているの?」
「脅迫材料にならないか?」
  なる。はっきり言ってなった。碧珀明に芸術的な才能がないわけではない。しかし、楸瑛は今の空色のボディを愛していたし、何より――自分が碧青年に好かれていないのを実は知っている。彼との接点が多いわけではないが、とにかく碧は絳攸に心酔しており、絳攸と楸瑛の少し特殊な関係を面白く思っていない(嫉妬だろうと楸瑛は思っている)ので、ここでノーと言えば、楸瑛の<Az‐1>がたちまちに面白いことになってしまうのは明白だった。
  嫌な汗が流れる。だが、楸瑛は少々引き攣りながらも笑んでみせた。
「その前に、私に何をさせたいのか聞かせてくれないか。こんなことをしなくても私が君の頼みを無下にするとでも?」
  つ、と初めて絳攸が視線を逸らした。そしてやや居心地の悪そうな声で言う。
「……もう、<Azure>に、船に乗れなくなるかもしれない」
  その言葉に、思わず楸瑛は真顔になる。事は思ったよりも重大なのかもしれない。
「……なんだって……きみは、何を望んでいるの?」
「お前から<Azure>を奪うようなマネはしたくない。だが俺はこの時のために……」
  絳攸の言葉は歯切れが悪い。楸瑛はしびれを切らして絳攸の足元に膝をつき、彼を見上げた。
「いいから、言ってごらん」
  そうして――
  絳攸は意を決したように、楸瑛を見据え、口を開いた。

「楸瑛――俺を、<エヴァ・グリーン>に連れて行ってくれ」

「あー…」
「なんだ」
「何となくわかった」
  君の考えてること。考えてきたこと。
「そうか。で、返答は?」
「うーん、いかに船が大事だっていっても自分の首より落書きを選ぶ人間に見えるかなあ。この私が」
  楸瑛が言うと、あっさりと絳攸は頷いた。
「やはり甘いか」
「甘いね」
「じゃあ」
  といって絳攸が再び楸瑛の鼻先に突き出したのは、銃口だった。
「俺を木星まで連れて行かないと、撃つぞ」
  まるで棒読みだったが、楸瑛は思わず両手を挙げた。
「これは随分思い切ったね」
  だが当の絳攸は乗り気ではなさそうに首を捻っている。
「この方法はあまりうまくいかないと思っていた。こういう暴力的なのは苦手なんだ。運動神経もお前には敵わないし」
「たしかに一度いいよと言ってしまっても後でどうにでもできるからね」
  そうなんだ、と絳攸はやはりあっさりと認めて、銃を下ろした。
「で、君の用意した手札はこの2つきりかい?」
「いや、あともうひとつ」
「訊いても?」
「秀麗にお前の弟を呼ぶように頼んである。すでに紫州のある場所に確保済みだ」
「は!?」
  恐らく、今日一日で楸瑛が一番驚いたのがこの瞬間だった。
「なんで!――龍蓮は大人しく人質になるような子じゃないよ!?」
  そして今日のこのやり取りの中で初めて絳攸が笑った。しかも――にやりと。
「知ってる。――いま、衛星通信を介して世界に曲を披露しないかとオファー中だ」
  楸瑛の全身から血の気が引く。何故、普段行方を探そうと思っても捕まらない弟がこんなときばかり見つかるのだ。
「さあどうする?誇張ではなく、世界の命運はお前の肩にかかったぞ」
  これを他人が聞いたらどう思うだろう、と楸瑛は思う。あまりにも馬鹿馬鹿しい話ではないか。弟の演奏一つでどれだけのものが引き換えになるというのか。
  だが――ここで断れば、楸瑛は世界中から非難を受けることになるだろう。原因は弟なのに。
「で、エヴァまで飛んでくれるのか、どうなんだ」
  紅黎深の後継者はここにいた、と楸瑛は思った。

 そうして、楸瑛はふと気付く。
  どうにも話の方向が明後日だが、根本はどこにあった?
  何故、こんな話をしている?

 ひとつ、息を吐いた。
「……君、秀麗ちゃんにも似たようなことをしたの?」
  それを聞いた絳攸は心外だというような顔をした。
「まさか!秀麗にそんな非道いことをするわけがないだろう。『お願い』したんだ。そうしたら簡単に了承してくれた」
「馬鹿だな」
「何が」
  絳攸の顔が剣呑になる。楸瑛はそれを見て苦笑した。
「どうして、この私にもまずお願いしてみようと思わなかったのかな」
  絳攸が瞬く。
  その手を引いて、耳元に囁いた。

「いいよ、行こう。君と<エヴァ・グリーン>へ――その代り、私のお願いもきいてくれる?」

 そしてもう一言を吹き込む。
  絳攸は少し驚いたように楸瑛を見返して、それから、困ったように笑った。
「お前こそ、馬鹿だ。後で『脅されたから』なんて言い訳できなくなるぞ」
「じゃあ、取引成立だね」
  そうして絳攸は、感極まったのか楸瑛の首にしがみついた。それに楸瑛も笑って応えながら、胸の内で嘯く。
  ――実は、もしかしたら、最初から答えは決まっていたのかも知れない。
(惚れた弱みってやつ?)
 

――黎深襲撃二十時間前のことである。

 

4.Players (on stage)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
  木星の悲劇を知っているか。

 そしてその唯一の生存者を――

 

 黎深が出会った時、その子供は何も持っていなかった。

 家族、それまでの人生の記憶、自分の名前、

 ――生きる意味。

 生きる理由をを持たぬ子に、死ぬ理由を与えられるわけもない。
  だから、黎深は生かした。 

 突然増えた同居人を、妻は喜んだ。
  黎深は一度だけ、“彼”に自分の出自を教えた。しかし、彼は何も思い出さなかった。失われた過去はすでに彼の一部ではないのだとその時黎深は判断し、それきり彼に対し過去に触れさせることはしなかった。
 
  それからの日々は、悪くないものだったと黎深は思っている。やがてその子供は笑うことを思い出し、彼の妻はもっと笑うようになった。

 一組の夫婦と一人の少年は、いつしか“家族”になる。
  口に出したことなどないが、黎深はその子供の健やかな成長を願っていた。言わずともそれを悟った彼の妻は「立派なお父さんだねえ」と黎深をからかったが、その指摘はけして不快ではなかった。
  そんな自身の変化に、黎深こそが自分を嗤いたくなる。
 
  この世界はただ生きるだけの人間には厳しかったから、黎深は己の能う限りの知恵を授けた。いつか、彼が独り立ちをする日に自分の好きな道を選べるように。
  だが血の繋がらないその息子は、宇宙を目指した。
  どうして!彼からすべてを奪ったあの無明の海にまた臨むというのか。黎深はひどく落胆して(動揺だったかもしれない)、体面もなく彼をなじった。
  そうしたら、ちょっと困ったような顔をして彼は言ったのだ。

「宇宙には、黎深さまがいらっしゃるから」

 黎深にとって、それまで論破できなかった理屈など存在しなかった。どんな計算式だって、必ず答えをはじき出した。
  しかし、その時の黎深には言うべき言葉が見つからなかった。
  ――ほんとうに大事なもののことは何時だって分かった例がない。

 

(・・・・・・。)
  ふと、目が覚めて瞼を持ち上げると<彩雲>内の自室の天井が見えた。薬物の残る体はけだるく、起き上がる気はしない。
  黎深の心は、自分で思っていた以上に凪いでいる。

 あの子は今どうしているのだろう。
  そうして何を得るのだろう。

 願うことはただ一つ。
  ――今度は何も失わないように。

 

 


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