『UTC、2100になりました』
  艦内に響き渡るショパンのノクターン。終業放送にはあまりにもベタな選曲。だが乗組員から不満が出たことはない。多くの者はこの曲を聴いて休息の刻を思い出す。そしてマンネリともノスタルジーともつかないそれに安堵してベッドに潜り込むのだ。
――愛する家族の夢がみられるようにと願いながら。
  絳攸は掌の中にある無機質の塊を撫ぜた。ひんやりとした感触のそれが自分を冷静にしてくれる気がする。
  今この時に楸瑛がいて、黎深がいて、船がこの軌道にあって。
  そして星の巡りあわせがあり――全てが揃った。
  きっとこれが最初で最後のチャンス。

 ――後悔はしない。

※UTC=地球標準時

3.Traitor

 

 

【UTC2103 彩雲艦内:居住区紅黎深私室前】

 養い子が、こちらに銃口を向けている。黎深の部屋は一般職員よりも離れた場所にあるため、他に通りすがる者もいない。
  黎深は特に動揺することもなく、極めて平坦な口調で問いかけた。
「何のつもりだ」
  対して絳攸は、――こちらのほうがひどく緊張した面持ちで銃を掲げたまま言った。
「<スミレ>の、最高指揮権認証をリセットするパスを教えてください」
  その言葉が明らかにするところは、すなわち<スミレ>――この艦の乗っ取りであ
る。
  確かに火星の衛星軌道上を運航中のこの<彩雲>内の最高権力は黎深にあった。さて、この息子はクーデターでも起こすつもりか、それともこれが遅咲きの反抗期というものなのか。非常に興味が湧いたが、その前に黎深は首を傾げた。
「お前、それで脅迫してるつもりなのか?――お前には私が撃てないことが分かっているのに?私が答えるとでも?」
「……」
  絳攸は答えず、微動だにしない。
  そこに、割って入った声がある。
「私がいます」
  首だけで後ろを窺うと、一人のパイロット風情の男がこちらも銃を黎深に向けて立っていた。黎深はこの男に覚えがあった。
「私なら、貴方が撃てますよ。黎深殿」
「藍家の四番目か」
「絳攸が撃ち損じたら、私が貴方を仕留めます。余計なことは考えずにご自身の心配をされたらいかがですか」
  フン、と黎深は鼻を鳴らす。
「なんだお前達、できてたのか」
「黎深様!」
  狼狽しながら声を上げた息子に対して、藍楸瑛はにっと笑って見せた。
「いえいえ、その点に関してはまだ貴方に『息子さんをください』なんて言える度胸はないので気付かなかったことにしてください」
「楸瑛!!」
「冗談だよ絳攸」
  まるで漫才だなと黎深は思った。まったく面白くなかったが。しかし、楸瑛の握る銃身は高度を失わず、こちらに向ける視線にも冷ややかなものが混じっているのは確かだった。
「私はすでに絳攸から、弱みを握られていましてね」
「お前のことなどに興味はない」
「あ、冷たい」
「絳攸」
「はい」
「もし、死んでも教えないと言ったら」
「撃ちます。俺か、あいつが」
  黎深が思うよりも、絳攸は澱みなく即答した。絳攸にとって、黎深に弓ひくこの行為は過程の一つでしかないらしい。
「それでどうする」
「管殿に、同じことを」
「――それで上の二人を指揮権行使不可能にして、自分が自動的に<スミレ>を掌握するか」
「はい」
  黎深の階級は少将、次ぐ管飛翔が准将、そしてその次に連なるのが中佐位を持つ絳攸だった。
「最後に訊く。――お前の望みはどこにある」
  絳攸は真っ直ぐに黎深を見た。

「――木星に」
 
  そして、黎深は口の端を上げた。
「おもしろい。協力してやろうじゃないか」
「は!?」
  絳攸と楸瑛は思わず目を合わせた。

 

【UTC2112 彩雲艦内:居住区紅黎深私室内】

 そうして。黎深の私室の中、今度は男三人で膝を突き合わせている。
  襲撃者と襲撃されたほうの人間が、このように相談し合っているのは何とも奇妙だと楸瑛は思う。だが当事者二人はそんなことは気にならないのか、わりと真剣な雰囲気を帯びていたので、その点については黙っていることにした。
  そして黎深が口を開く。
「いいか、私がまず飛翔の奴を業務中に飲酒した罪で懲罰房入りさせる」
  それを聞いて、楸瑛は唖然とした。
  管飛翔は見た目こそやくざだが、立派なエンジニアリング部門の優秀な責任者である。それに研究員への体罰処分など聞いたことがない。
  しかし黎深は、楽しそうに手にした扇を弄んでいる。
「そしてお前達は、私に自白剤でも飲ませたことにして、パスワードとIDカードを奪えばいい。私は昼寝でもすることにしよう。睡眠薬付きでな」
  楸瑛は黙りこくったままの絳攸に視線を送ったが、彼はそれに気づかず何かを思案している。
「パスワードだけでは、飛翔が出て来たとき奴に<スミレ>の制御者の優先順位を覆される。――奴もパスを知っているからな。だから私のカードで本人認証を誤魔化して、まずパスワードのほうを変えてしまえ」
「……その本人認証ですが、網膜照合はどうしますか」
  楸瑛が問うのに、黎深は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「このカードは、鍵に過ぎん。こじ開けた扉に何を詰め込むかはお前達次第だ。絳攸、出来るだろう?」
「――はい」
  やっとそれまで何かを考え込んでいた絳攸が顔を上げた。
「ですが黎深様。お訊きしてもよろしいですか」
  黎深が絳攸を見遣る。
「何故、ですか。どうして協力して下さるんですか」
「何故、だと?」
  黎深は至極つまらなそうに、扇を扇ぐ。
「私がお前のすることを止めたことがあったか。この息子に協力してやろうという親心が分からないか?」
  よく言ったものだと楸瑛は思った。黎深は確かに絳攸のすることを止めたことはないかも知れないが、彼のしでかした数々の『伝説』(という名の問題行動)が、確実に息子の人生を波乱万丈にしていることを楸瑛は短くない絳攸との付き合いで知っている。
「はい」
  だが、絳攸のほうは素直に頷いて見せた。
  確かに黎深の行動は時に非道だが、自分に対して嘘をついたことはない筈だった。――それとも気づいていないだけだろうか。しかしそれについて考える必要はないことを絳攸の中ではすでに結論がついていた。
  真実、黎深を敵に回したらこちらは手も足も出せないのを知っているし、騙され続けていたのであれば、それも仕方がなかった。今まで黎深のくれた幸福な日々をなかったことにすることなど絳攸には出来ないから。
「ありがとうございます」
  そして黎深は満足そうに胸を反らせて笑み、最後に言った。
「だがお前、覚悟はあるな?今の生活を失う覚悟は」

 彼は自分の胸を人差し指で叩き、言った。
「俺が俺である限り、もう失うものはありません」
  夜想曲はすでに、きこえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねえおとうさん、と船の窓枠から宇宙を眺めながら子供は傍らの父親に話しかけた。
「あたりまえだけど、うちから見る星空とは全然違うね」
  そう言うと父親は笑った。
「そうだね。じゃああそこにある若い恒星とあの赤いの…アルクトゥールスかな…を結ぶ三点を『――』座と名付けようか。君の星座だよ」
  父親が外を指さしながら言うのに、子供は驚いた顔をしていたが、きっと『しゅじょう』だって知らないねと嬉しそうにはにかむ。そして、
「じゃあじゃあ、その両脇にあるのがお父さん座とおかあさん座だね」とはしゃいだ。
  しかし、父親にはその星がよくわからなかった。ええどれだい、としきりに首を捻っている姿を見て、それを歯痒く思った子供はポケットからマーカーペンを取り出した。低重力下でも書き味の変わらないそれは、どうやら今朝の定例会議の時に持ち出したものらしい。
  そして、子供は躊躇なく窓に線を引いてゆく。その行動に一瞬怯んだ父親だったが、書き上がって満足そうに見上げてくる息子の顔を見ると、微笑んでしゃがみこみ、彼の視線から宙を覗き込んだ。
  確かにそこには星と窓に引かれたラインの合わさった、一つの家族の星座がある。
「ああ……本当だ」
「おとうさん。これおかあさんに見せたいよ」
  父親の妻であり子供の母親である彼女もこの船に同乗していたが、現在は勤務中である。しかもこの父親と息子は家族であると同時に同僚でもあったので、彼女の仕事を邪魔することなど出来るわけがない。
  子供も、その点は理解していたのでしょんぼりと項垂れた。
  とはいえ、彼女の勤務が終わる時刻まで待っていては、この船の位置も星の位置も変わってしまう。父親は俯いてしまったわが子を憐れんで、こっそりと耳打ちした。
「地上への定期連絡用のカメラがあるだろう。あれを持っておいで」
  先日も船内から木星を撮って送った。それならば、窓の外の星も写すことができるだろう。
  父親の発言に子供は少々面食らったようだったが、その瞳は正直に輝いていた。
「さあ、位置が変わってしまう。急いで」
「うん!」
  そして子供は走り出す。それを見送ってから父親は息子の書いた文字が並ぶ窓に向き直った。

おとうさん
おかあさん
ぼく

 あどけないその筆致に、思わずその頬が緩む。備品への落書きは問題だが、こういった人間らしいもののほうが地上の人間には喜ばれるような気もする。
  男と妻の能力をあますところなく受け継いだ彼の息子は、十を迎える前にすでに将来への義務を背負っていた。この乗船もその一環であり、男は貴重な子供時代をこんな殺伐とした宇宙で過ごさせることに後ろめたさも感じている。
  しかしながら、周囲の期待という重圧に負けず、彼の息子は健やかに育っていた。そのことに男は幸福を噛み締める。

 

 どうかエヴァ・グリーン。君が彼を慈しみ育む永遠の森となりますように。


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