絳攸が二枚の料紙を挟んで、真っ向から劉輝を見据えてくる。
一枚には、雨季が長引いたために河川の堤防が決壊したとの、紫州府からの陳情書。そして二枚目には、被害への援助目録および御名御璽の印。
「――それでは紫州ばかりを贔屓していると侮られるぞ」
その声音は冷たかった。しかし、劉輝は顔を上げる。
「しかし、現にいま紫州の民は苦しんでいる!王として見過ごせないだろう!」
「毎年、災害を被っているのは紫州だけではない」
「今までだって、時に臨んで対応してきたはずだぞ」
「今回は違う。戸部に審議をかけず勅命で国庫を開くなど」
「一刻を争うのだ!」
つ、と絳攸の目が細められた。滅多に笑顔を見せない彼ではあるが、今は殊更に表情に温度がない。
「――これが主上の出した答えですか。よく考えましたか。」
こくりと、劉輝は重々しく頷いた。
「では決定ということで。これは私が戸部尚書まで届けましょう」
それを一瞥すると、絳攸は机案から勅書を取り上げて、踵を返し扉に向かう。
その背中に、劉輝はそっと唇を噛んだ。自分は間違ったことをしていないはずだっ
た。なのに、この遣り切れなさはなんだろう。
絳攸が扉に手をかけて足を停めた。
「――主上、一言云わせてもらいます」
彼は振り返らないまま、言う。
「……なんだ」
「折角、国庫を開くなら、ケチケチせずにもっと大判振る舞いしてやれ。――以上」
そして、執務室の扉が閉まる。不思議にパタン、と穏やかな響きだった。
劉輝が意味が分からない、というように呆気にとられていると、クスクスと笑い声が室に響いた。
主の傍らで、腰に剣を帯びた美丈夫が壁に背を預け、肩を震わせている。絵になりそうな男前だが、それに目を奪われるほど、付き合いは短くない。
「……楸瑛」
「主上、のんびりしていていいんですか?絳攸は命令書を書き直す猶予をくれたんですよ。――彼が一人で戸部まで早々に辿りつけるワケないでしょう」
「え、ああ、そうだな」
支援額をもっと増やす。そうすれば、より紫州の民は楽になるだろう。
「さあ、彼が道案内を見つける前に。――時は一刻を争うんでしょう?」
しかし、劉輝はのろのろと筆を取る。思案のある顔だった。
「なあ、楸瑛」
「なんですか」
「・・・・・・やはり余は頼りないだろうか。自分で一つの決断もできないくらいに」
楸瑛が首を傾げる。
「どうして。今日のは見事に主上のご判断でしょう。なかなかに英断だったと思いますよ」
「そうか?しかし、絳攸は面白くなさそうな顔をしていた。」
筆の進まない王に、楸瑛は優しく微笑んだ。
「でも、反対しなかった。昔なら即座に一刀両断したのに」
は、と劉輝が顔を上げる。
「それから、助言もしましたね。きっと苦言を呈するであろう戸部尚書に自分で持って行こうともした。――内心ではきっと喜んでるに違いありませんよ。彼が素直じゃないのはよくご存じでしょう?」
「・・・・・・」
しばし楸瑛の顔を眺めて。それから劉輝は猛然と筆を走らせた。
まもなく劉輝が書き上げた勅書を入れた文箱を持ち、楸瑛が執務室を出るとすぐに絳攸を見つけることが出来た。昊には厚い雲が覆っていたが、辺りを見渡すに支障をきたすほど暗くはない。彼は回廊から出て、庭院に造りつけられた人工の池を座り込んで覗いていた。――楸瑛が出てくるのを待っていたのだろう。
楸瑛は態と足音を立てて傍へ寄ったが、しかし絳攸は振り返らない。
「ちょっと意地悪だったんじゃない?」
楸瑛が半ばおどけて言うと、漸く裾を払って立ち上がる。
「……甘ちゃん王にはあれくらいで丁度いいだろう」
「それも臣下の情けってやつかい? 陛下は不安がってたよ」
「……俺は」
「悪いとは言ってない」
何か反論しようと顔を上げた絳攸に、間髪入れず楸瑛が許容の意を示すと、絳攸は口元を歪めて俯いた。
「……今回の主上の決定は悪くない。確かにやり辛くなる面はあるが、地方への急を要する援助の手続きとして、国王が即断出来るという先例が出来た。だから諸手を揚げて賛成してやってもよかった。だが――」
そして、風にさざめく水面を睨みつけるようにして、言った。
「俺は、主上の鏡になりたい。決めたんだ」
その瞳には、曇天にも翳らない、強い光。
「主上の心を政に映し、諌言の必要あらば真っ向から対面すると。主上は近いうち必ず全朝廷を掌握するだろう。そうなった時、あの人は俺のことを鬱陶しくなるかもしれな
い。――だが俺は、決めた。あの時に」
劉輝を生涯の主とさだめた、あの時に、と。
「追従だけの臣など意味がない。俺は、このやり方でいく」
「不器用だね」
「性格だ」
自然と、楸瑛の目元が緩む。あの王が、早々に絳攸を疎むことなどある筈がないのに。その心を知れば、尚のこと。
「……それ、書けたんだろう。寄越せ」
照れくさいのか、視線を上げないまま絳攸が手を伸ばす。楸瑛は抱えた文箱を差し出した。初めから楸瑛が持って行くつもりではなかった。当然、武官の仕事ではないのだから。
「……」
しかし、絳攸が箱に掛けられた紫色の紐を掴んでも、楸瑛は手を放さなかった。
「?」
絳攸が訝しげに楸瑛を見上げる。
そこには、穏やかな貌があって。
「私も、決めた」
「楸瑛?」
「そんな、君を護るよ。主上と、主上の護りたいものを、護る。それが私の役目だ。すべては――」
絳攸はその黒瞳を覗き込んだ。続く言葉を、きっと自分も知っている。
「全ては」
「「主上のために」」
楸瑛は空いている方の絳攸の手をとる。そして、その指先に唇でそっと触れた。
やや肌寒い秋の風が二人の頬を撫ぜてゆく。絳攸はじっと楸瑛の様子を見つめ、彼の面が漸く上げられると言った。
「はずかしいやつ」
楸瑛はにっこりと笑んだ。
「君への誓いだ」
「……ふん」
そして、絳攸は無理やり文箱を取り上げ、踵を返す。
「では戸部へ行く。ついて来い」
楸瑛は、そのけして逞しいとは言えない背中に、拱手で応えた。
「――仰せのままに」
書いてる私がね!どきどきします。指先とか口許とか、微妙にズレたところへのキスに弱いんです。
背中で語る男、李絳攸。