一輪の花が咲いている――。
酷い頭痛と朦朧とした意識の中で目を覚ました羽林軍の一武官は、酒精によどんだ空気と、酒に討ち死にした男共が死屍累々としている官舎の中で、あきらかに場違いな人物が端座しているのを見た。
派手ではないが、新年の装いらしく清爽とした衣。きちんと結われた髪、その下の少し気難しそうな整った横顔は憂いを帯びていた。そして日焼けのない肌。文官だろうか。頸から背中、肩にかけた稜線は成人男性のものだが余計に鍛えていない分、すっきりとしている。
男には、彼が血と汗と筋肉と根性にまみれた自分たちとは違う世界の人間なのだと、はっきり分かった。分かって、何故だか少し、悲しかった。
黙々と杯を傾ける彼の隣には、裏切り者――もとい、藍将軍がいる。酔いが回っているのか、関係が無いのか、随分楽しそうに彼に話しかけていた。
ああ、もしかしたら彼が李侍郎か。そう思った男もまた酔っていた。――傍へ行ったら少しお話しできるだろうか。機嫌はあまり良くなさそうだけど、でも、もっと近くへ――ふらふらと歩みだそうとしたとき、しかし、ちょうど彼を挟んだ反対側から黒白大将軍がやってきた。それを見て、酒漬けの思考回路ではなく、本能で――彼は瞬時に諦め、再び夢の世界へ旅立って行った……。
「……何も訊かないのか」
「どうして?話したいのなら、勿論聞くけれど」
干された杯に、楸瑛は黙って酒を足してやった。絳攸は睨むようにそれを見つめている。その目元は朱に染まり、既に酔いが回っていることがわかる。
「紅家の思惑など、あまり興味はないからね。君のことなら別だけど」
「知っているんじゃないか!」
絳攸が顔を上げた。いつもであったら、楸瑛の軽口のほうにまず反応してみせるのに――成る程、彼はかなり追い詰められているらしい、と楸瑛は思った。
白い手がまた杯を呷る。
「俺は・・・・・・秀麗が好きだ」
呟かれた言葉に、ほんの少し落胆して楸瑛は頷いた。彼が結ばれるなら、今のところ彼女しかいないと思っていた。
「うん」
「主上も好きだ。」
「うん?」
首を傾げた楸瑛に気づかず、絳攸は喋り続ける。酔っているのだろう。でなければそんな直截な言葉を彼が言うとは思えなかった。
「黎深様も、玖琅様も邵可様も、好きだ。大切だ。みんなの望むようにしたい。がっかりさせたくない」
「絳攸、それは」
少し違う――と楸瑛が言いかけたとき、割って入った声があった。
「珍しいのがいると思ったら、これは、李侍郎ではないですか」
さっきまで飲み比べに耽っていた黒白大将軍である。余計なのが来た、と彼らの部下は思った。絳攸は気にも留めない様子で新年の挨拶など述べている。
「では、一献」
「戴きましょう」
注がれた酒を絳攸が一息に干す。それに気を良くした白大将軍が更に酒を足そうとした。楸瑛は両大将軍相手ではこの先、絳攸の生死に関わると懸念して止めに入ろうとしたが、白大将軍が酒瓶を持ち上げたその瞬間、それが割れた。
陶の破片と酒が散乱したその床に、一本の矢が刺さっている。
「てめえ、何すんだ静蘭!」
「・・・・・・タチの悪いゴロツキが、お嬢様の師(せんせい)に絡んでんじゃないですよ」
振り返った先には、此方に弓を構えて立っている、静蘭がいた。完全に目が据わっている。・・・・・・先程まで大人しく潰れていたのに。
「ああ?上司に弓向けていいと思ってんのかあ!?」
睨みあう大将軍と一家の家人――もとい部下。、呆気にとられている楸瑛を尻目に、何故か一触即発の雰囲気になっている――。
「生憎私は、ゴロツキに膝を折ったことなどありません」
「てめ、イイ性格してるじゃねえか。ちっとその根性叩き直してやらあ!」
酔いの回ったその口調は、紛れも無くならず者のそれ――と楸瑛は思ったが、口は挟めない。
「出来るものならやって御覧なさい」
周囲を凍らすような静蘭の視線を歯牙にかけることなく、白大将軍は立ち上がった。そして、近くで潰れている兵士の一人を殴って起こし、「酒持ってこい!」と言い放った。
呑み勝負なんだ・・・・・・と楸瑛が呆れて見ていると、その場から離れる両大将軍に付いてゆく静蘭が背を向けざまに、表情を変えることなく、絳攸に言った。
「絳攸殿、負けませんよ」
そして、さっきまで泥酔していたはずの元公子様はその高い矜持によって、すたすたと歩いて行ったのであった。
発言が微妙におかしいのは、彼もまた酔っていたから。
静蘭の言葉に、楸瑛が絳攸を振り返ると、彼はうとうとと船を漕いでいた。
(あの騒ぎで寝れるなんて結構大物かも・・・)
二人のときに言いかけていた言葉などとうに忘れてしまった。楸瑛は絳攸にこのまま此処で寝かせてまさかのことがあってはと思い、場所を移そうと彼の肩を叩いた。
「絳攸、ここでなくて私の執務室(へや)で休もう」
「ん・・・・・・?」
起こされた絳攸は目をこすりながら、あーとかうーとか意味の分からない何かを漏らしている。そんな子供のような姿に楸瑛は思わず笑みをこぼした。
酒は、年月とか、矜持とか、建前とかそういったものを剥がしてしまうのかも知れない。だから、これは大人の飲み物なのだ。そして朝には全て忘れて、また一日を生きてゆく。
「ああ、そうだ楸瑛」
「なんだい?」
笑顔の楸瑛に、反射のように絳攸も笑っていった。
「お前のこともな、好きだぞ」
照れも無く、真っ直ぐな笑顔でそう言われた楸瑛は、酒の所為だけではなく、撃沈した。
たとえそれが、秀麗や国王や彼の養い親に向けられたのと同じ「好き」であったとしても。
――最高じゃないか。
気づけば、絳攸は寝息を立てている。楸瑛は苦笑した。
そうして結局二人はそろって、羽林軍の官舎でその他大勢に混じって眠ることになる。
勿論、絳攸は翌朝にはすべて忘れてしまっているのだが、どんなに質しても楸瑛は彼が何を語ったか、けして口を割らないのであった。
ただ、幸せそうに微笑むだけである。
お約束だネ!
静蘭は一応、気を利かせたんです。
そして居眠りこく絳攸君を襲わないのがうちのへたれ楸瑛…