「天高く牛肥ゆる秋……」
ぽつりと落とされた呟きに李絳攸は書簡から顔を上げた。
振り返れば、机に積まれたの書類の中で国王は筆を止め、窓からぼうと空を眺めていた。
ぴくり、と絳攸の片眉が上がったのを認めて藍楸瑛が苦笑しつつ劉輝に進言する。
「主上、手が止まってます」
・・・・・・。
しばしの沈黙が執務室を占拠して。
「よし楸瑛!栗拾いに行くぞ!」
「なんでだぁぁぁぁ!」
次の瞬間イイ笑顔で二人の側近を顧みた劉輝に、絳攸は手近にあった文鎮を振り投げた。
「あ、危ないぞ絳攸!文鎮はいかん文鎮は」
絳攸の投げた真鍮製の文鎮は真っ直ぐに劉輝を目指したが、流石の劉輝も素手で超高速の文鎮を受け止めることは出来ない。咄嗟に避けるしかなかったが、それでも劉輝の反射神経と運動神経の賜物だった。
しかし無情にも、そのまま文鎮は机の上の書類の山に突っ込んだ。
結果、辺りにはばらばらと紙片が舞い散り、執務室の床を白色が塗りつぶす。
その中を――劉輝は蒼褪めながら、絳攸は肩で息をしながら、そして楸瑛は苦笑を浮かべながら、三者三様にしばらく立ち尽くした。
「……申し訳ありません」
一番最初に口を開いたのは絳攸だった。顔を手で覆っている。――どうやら急に立ち上がったせいで眩暈を起こしたものらしい。
「い、いやいいのだ。余も悪かった。次はもっと軽いものにしてくれ」
「主上・・・っ」
問題はそこかと突っ込むものはその場に居ない。ちなみに楸瑛は、こういう場面では観察役に徹して楽しむほうなので役に立たない。
「絳攸のおかげで現実に帰れたのだ。馬鹿なことを言った。さ、仕事に戻ろう」
力なく笑って、劉輝は足元の書類に手を伸ばす。絳攸もそれに習ってしゃがみこんだ。
「「はあ・・・・・」」
そうして、二人の溜め息が重なった。
楸瑛は束ねた書類を劉輝に手渡しながら言った。
「煮詰まってますね」
劉輝と絳攸の顔には目の下に隈が出来ている。彼らはここのところ日夜を徹して仕事に追われていた。
「楸瑛にも付き合わせて悪いと思っている」
「私のことは気にしないで下さい。これが仕事です」
楸瑛も同じだけの時間を共に過ごしていたが、彼の本来の身分は武官である。意見を求められることはあっても、案件についての判断を直接に下すことはなかった。
劉輝は意外にもしっかりと、差し出された書類を受け取る。
「そうだな、余も絳攸もこれが仕事だからな。ここが踏ん張りどころなのだ」
書面に判を押すことだけが仕事ではない。どんな問題であっても、自分の名で決裁するということは責任を伴う。国政であれば尚更である。その差が、楸瑛と彼らの疲労の差だった。
幸いなことに、彼らの王はとても真面目であったので、何度執務室から朝日を見ようとも、愚痴をこぼさなかった。
しかし、そんな日々を続けた結果が冒頭の発言だった――。
「栗が、食べたかったんですか?厨に用意させますか」
床が片付いて劉輝と絳攸が机に戻る。楸瑛は訊いてみた。
「ん?ああ……いや、何となくだ」
劉輝は全州の米穀高の報告書に目を通しながら言う。
「今年は米が良くとれたから、価格が安定して秀麗が喜ぶなと思ってな。そうしたら、秀麗のご飯が食べたくなって。秋だから栗ご飯とかいいなと思ったのだ」
それで、と続ける。持つ手に力が入ったのか、紙面にぴ、と線が入った。
「たくさん栗を拾っていったらな、秀麗がきっと『わざわざ自分の手で拾って来てくれるなんて私嬉しい!劉輝だいす」
「色ボケか!」
すこん、と絳攸の机から書き損じの料紙が丸められたものが飛んできて、劉輝の頭に当たる。
劉輝はのろのろと頭を撫でて感動薄く言った。
「余は王様なのに…ごみを投げられたぞ。でも先程の反省は活かされているな」
「主上……」
その様子を見て、楸瑛はやばいかも知れないと胸裏でとなえる。執務室に漂う暗雲が、目に視えるような気がした。
(かなりキてる……絳攸はまだ吏部でこなしてたから大丈夫そうだけど、でもそろそろ)
ちらりと彼の人を見やると、案の定こちらも顔色が良くない。
(彼らに必要なものは睡眠と)
――やはり秋の昊、かな。
「主上、今度の公休日は栗拾い、行きましょうか。ついでに紅葉なんか眺めて」
劉輝は顔を上げた。
「いいな。何処へ行く?」
「たまには遠乗りも悪くないですね」
しかし劉輝は机上に積まれた案件に視線を戻す。
「それもいいが、この仕事が落ち着かない限りはな……無理だ」
公休日は一日しかない。睡眠不足で馬には乗れない。
「では前日の公務は午前で切り上げましょう」
「しかし……」
楸瑛の提案に、劉輝は煮え切らない。
いつの間にか絳攸が筆を置いてこちらの様子を伺っていた。楸瑛が振り返る。
「絳攸はどう思う?」
仕事一筋官吏一筋の男は、淡々と返した。
「公休日の使い方は主上の勝手だが、三日後だろう。その前日は話が別だな」
否定的な反応に、しかし楸瑛は眉ひとつ動かさない。
だが、と表情を崩さず絳攸は続けた。
「俺がこう言うことは予想済みのはずだ。何を考えてる?楸瑛」
そうして逆に問われて、楸瑛はにっこりと笑った。
「私はどうしても主上と君と遊びに行きたい。だから絳攸、私と勝負しないか。私が勝ったら、明後日は午前でおしまい。今までの残業分でおつりがくるよ。君が勝ったら、一日仕事だ」
絳攸の眉根が寄る。
「何の勝負だ」
「腕相撲」
「勝てるか!」
即座に絳攸が返した。
「じゃあ私は左腕でいいよ」
しかし、頷かない。
「左と右で勝負が出来るか!・・・と言いたいが、左でもあやしいな」
楸瑛はわざとらしく首を振った。
「しようが無いなあ。じゃあ君は両手使っていいよ」
その提案に矜持が傷つけられたか、絳攸は大いに面白くなさそうな顔をした。が、結局立ち上がった。
「そこまで言われたら退けん。俺が勝ったら仕事だからな!」
そして楸瑛は場違いなほどに艶然と微笑む。
「いいよ。本気でおいで」
「負けた……」
絳攸は自分の両手をじっと見つめている。
「ちょっと危なかったけど。ま、これでも将軍職で主上の護衛役ですから?」
楸瑛が大仰に汗を拭う仕草をした。
世にも珍しい腕相撲勝負は楸瑛の勝ちだった。一時膠着状態に入ったが、持久力の差でそのまま楸瑛が押し切るかたちになった。
俯きっぱなしの部下に、置いていかれた感のあった劉輝が駆け寄る。
「余は仕事でもいいのだぞ?」
その言葉にようやく顔を上げた絳攸は、思っていたよりもすっきりとした表情をして首を振った。
「俺も男だ。二言はない」
そして、劉輝に向かって少し笑った。
「行って来い。遠乗りでも何でも」
その言葉に劉輝は目を瞬かせた。
「絳攸は行かないのか」
「え?言ったじゃない。君も行くんだよ」
絳攸は慌てて手を振る。
「俺は馬は得意じゃない。栗にも興味はない」
「でもさ、秀麗殿の栗ご飯は食べたいだろう?」
絳攸が言葉に詰まる。たしかに、きっと彼女の作る栗ご飯は美味なことだろう・・・
・・・。
その様子に劉輝が意気高々に詰め寄った。
「じゃあ来なきゃ駄目なのだ!働かざる者食うべからずなのだ!」
「何で作ってもらえることが前提なんだ!門前払いされるかも知れんぞ」
「うっ!」
突き出された現実の言葉に、今度は劉輝が詰まった。
「酷いこと言うなあ君。そんなのは二の次じゃないか」
二の次!?と劉輝は驚愕して楸瑛を振り返ったが、この男は気にせずに言葉を続けた。
「だって君、置いていったら休み返上で仕事していそうなんだもの。それに、私は三人で遊びに行きたいんだ」
そうして、今度は莞爾と笑う。
「敗者は勝者の言うことをきくものだよ、絳攸」
秋の吸い込まれそうな蒼昊を思わせるそれは、まさしく勝者の笑みだった。
「黄金」の後ぐらいですかね?(訊くな)
たまには楸瑛が主人公で。