閉館時間ぎりぎりまで、二人で夏休みの宿題ために区営図書館の資料をあさった。
めぼしい物を探し当て図書館を出ると、太陽はやっと地平線に届こうとしていたところだった。
陽射しの優しくなった閑静な住宅街を、他愛ない話をしながら二人でのんびりと歩く。
涼しい風が二人の頬を撫でていった。
絳攸はそれを心地よく思ったが、その片割れ――楸瑛は眉を寄せながら顔を上げた。
「・・・・・・水の匂いがする」
「楸瑛?」
「絳攸、あの雲。来るよ!」
何が、と不思議そうに絳攸が空を仰ぐと、何かが額を打った。
そして、夏の風物詩、夕立が彼らを襲った。
「何処かで雨宿りする?」
「何処でするっていうんだ!」
相談しようにも、容赦なく雨脚は彼らの上に降り注いだ。その衝撃は剥き出しの腕には痛いほどで、すぐ隣にいても、大声を出さなければ声が届かないほどの雨音だっ
た。
二人は駆けながら辺りを見渡す。しかし、ここは政治家や財閥の人間が多く住む高級住宅街。高い壁に小さな入り口の家が多く、屋根になるようなものは殆ど無かった。
あえてその小さな軒の下に入ろうとすれば、不審者扱いされて警備会社を呼ばれるかもしれない。――まさか高校生相手にそんなことにはならないだろうが、監視カメラに見守られての雨宿りなど御免だった。
「うちまで走るぞ!」
「いいの?」
苛立ちながら言った絳攸に、楸瑛は心底驚いた。彼が今まで家に誘ってくれたことはない。
「お前の邸より近いだろ!」
「やった!何だか楽しみになってきた」
喜色を表した楸瑛に、絳攸は苦い顔を隠さない。
「・・・・・・借りた本濡らしたら殺すからな!行くぞ!」
二人は、鞄を胸に抱きながら走った。
「ただ今戻りました・・・」
「お邪魔します」
紅邸の玄関に二人、息も絶え絶えに濡れ鼠となって立ち尽くしていると、奥からスリッパをパタパタと鳴らしながら、邸の者とともに百合が出てきた。薄桃色の和装に、柔らかそうな髪に縁取られた顔は美しく、優しい。手にはバスタオルを持っている。
「おかえり、絳攸。お隣は……君が楸瑛君かな?」
「初めまして、藍楸瑛です」
楸瑛はきちんと頭を下げた。その拍子に雫が落ちる。
「初めまして。絳攸の母の百合です。よろしくね」
そして百合はその頭に優しくタオルを掛けてやった。楸瑛は礼を言いつつ、訊いた。
「僕をご存知なんですか」
「絳攸から話をよく・・・・・・」
「ゆ、百合さん!」
楸瑛が目を丸くして「そうなの?」と振り返ると、絳攸が焦って百合を止めようとした。彼女は楽しそうににこにこしている。
「本当にずぶ濡れだねえ。お風呂沸いてるから、二人で入ってらっしゃい。楸瑛君、ご飯食べていってね。服を乾かしておくから」
「すみません。お世話になります」
笑顔の楸瑛と百合を、絳攸は何かもの言いたげな目で見ていた。
「・・・・・・大きなお風呂だね。しかもこれ、天然温泉?」
尋常な広さではない其処は、声が良く響く。冷えた身体にじんわりと熱が伝わり、二人は思わず息を漏らした。
「お前の家もこんなもんだろ」
「いや、うち洋風造りだから。バスタブはそんなに広くない」
二人は紅邸の浴槽に並んで浸かっていた。その広い浴槽は、高校生男子が二人入っても云々というレベルではなく、確か学校の宿泊施設のクラスの皆で入る風呂がこれ位だったかなあ、と楸瑛が思うほどの広さである。はっきり言って、泳げる。
雨粒の落ちる天窓があり、高い天井は漆喰の乳白、壁は彩度の低い緑青のタイルが様々な色合いをみせながら貼られている。仄かに硫黄が香る浴槽は大理石で、落ち着いた雰囲気は下手な旅館より余程居心地がいい。
「百合さん、遠くから見ても綺麗だけど、近くでみるとさらに美人だねえ」
楸瑛は百合を見たことが初めてではなかった。何故なら、彼女は息子の学校行事には必ず顔を出していたから。彼らの通う高校は幼稚園・小中高校・大学とエスカレータ式となっているが、絳攸は中等部からの編入だった。それからの五年、彼女は欠かさずに授業参観や文化祭に訪れている。
学校行事の度に表れる美女は、密かに校内では話題の人だった。
「凄く優しいし。羨ましいね」
それは、心からの言葉だったのだが。
「・・・・・・それが、俺の母親なんて、信じられないだろう」
絳攸は目を合わせず、宙を見たまま言った。
絳攸と両親が血の繋がっていない家族であることは、以前に聞いていた。五年前に自分は拾っていただいたのだと、本人から聞いた。
楸瑛はちらりと絳攸の脇腹を盗み見る。古い傷痕があった。だが、年月を経ても消えない大きさのそれ。そしてそれは一つではない。
絳攸は五年以上前のことは何も語らない。楸瑛も訊けなかった。ただの高校生である自分に彼の過去を受け止められる自身が無かったから。
けれど、分かることもある。
――それは、今の彼は、とても幸せだということ。
「シャンプー借りていい?」
今までの会話が無かったことのように、楸瑛は訊いて見せた。それに少し拍子抜けしたような顔をして絳攸が頷いた。
「あ、ああ。遠慮しなくていい。俺のでいいだろ、その青いボトルのやつ」
「あれか、わかった」
頷くと、楸瑛はすぐには立たず、絳攸を振り返ってニヤリと笑った。
「同じシャンプー使って、同じ匂いさせるって何か私たちデキてるみたいだよね」
絳攸は一瞬理解が出来ない、というように首を傾げ、それからすぐに顔を真っ赤にした。そして、楸瑛を湯船の中に引き倒す。
「気色の悪いことを言うな!死ね!沈め!」
「あははは、ちょっと、危ないよ」
ばしゃばしゃと飛沫を上げながら、二人が揉み合う。その拍子に髪紐が解け、楸瑛の腰まである黒髪が湯の中に広がった。
それに絳攸が目を奪われると、楸瑛は隙を見逃さずに絳攸の腕を引き、位置を逆転させた。
浴室に、絳攸の悪口雑言と、楸瑛の笑い声と、激しい水音が響き渡る。
――雨はいつの間にか止んでいたが、二人が気づくことはなかった。
二人の着替えを持ってきた百合は、扉の向こうのその騒ぎを聞いて、こっそりと笑った。
絳攸が友人を邸に連れてきたのは、初めてである。
しかも、一緒にお風呂に入るなんて。あんなに他人に肌を見せるのを嫌がったあの子が。とても奇跡としか思えない。
(まさか、それが藍の家の子とはねー。黎深が聞いたらなんて顔するかなあ。)
そして百合は、息子の友人にご馳走を振舞うべく、黙ってその場を後にした。
「くそ、何でこんなに髪を伸ばしてるんだ。男のくせに!切れ!」
「はいはい、丁寧に洗ってねーー私の自慢だからねーー」
「ていうか何で俺がお前の髪を洗ってやらなきゃいけないんだ!」
「君のおかげで髪が解けちゃったからだろう。酸性のお湯だと絡んじゃうんだよ。後で君の髪は私が洗ってあげるからね」
「いるか!」
「痛、いたた、絳攸もっと優しく」
「無理!」
そうして風呂から上がり、客間に通された楸瑛は其処に並ぶ豪勢な食事に目を丸くした。特に高級食材が、ということでは無く、量と種類が半端ではないのだ。しかし、反対に絳攸は少し困った顔をしている。
「百合さんがわざわざこんなに、してくれることはないのに・・・・・・」
紅家には専属の料理人がいる。だが、卓の上には百合の得意料理が何品も見え
た。
百合は手ずからご飯を盛りながら、笑って言った。
「なーに言ってるの!絳攸がお友達連れてきてくれたから。台所のみんなと嬉しくて張りきっちゃったよ。さあ、召し上がれ」
「いただきます」
促されるままに、楸瑛と絳攸は手を合わせた。二人とも空腹であったし、何より、料理の数々がとても美味しそうだったから。
黙々と箸を動かす二人を百合は嬉しそうに見ている。絳攸はふと気になった。
「百合さん、黎深様は?」
「あー、今日はちょっと遅くなるみたい」
実は、黎深にはもともとそんな予定は無かった筈なのだが、絳攸の友達が来ていると事前に伝えたら、同僚と呑んでから帰ると返事が返ってきた。・・・・・・多分、犠牲となったのは黄鳳珠だ。付き合いが長くとも、百合には黎深の意地の張りどころが未だによく分からない。
楸瑛が振り返った。
「なら、一緒に食べませんか。失礼になるのかも知れませんが・・・・・・」
「そんなことはないけれど」
「ぜひ!一緒に食べましょう百合さん。僕たちだけでは食べ切れません」
楸瑛の提案に、絳攸が身を乗り出す勢いで便乗した。――正直、百合に見つめられながらの二人での食事は少々気まずかったのである。
そうして、三人での食事となった。
百合は楸瑛に絳攸の学校での様子を訊いた。楸瑛は包み隠さず何でも話した。絳攸は照れたり焦ったり時々怒ったりしたが、百合の鈴を転がしたような笑い声の前では、はにかみながら黙って咀嚼を続けた。
「・・・・・・楸瑛君」
百合が箸を置いて真っ直ぐに楸瑛を見た。自然、楸瑛は居住まいを正す。
「はい」
「これからも絳攸をよろしくね」
「百合さん!」
楸瑛は黙って聖母の如き優しい表情の百合と絳攸を見比べた。絳攸は一瞬にして表情を消したこちらを怪訝そうに見ている。
そして、楸瑛はその瞳にひどく真摯な光を浮かべて言った。
「安心して下さい。絳攸は僕が必ず幸せにします」
「アホかっ、何の話だーーー!!」
怒髪天を突く絳攸に、百合と楸瑛は笑い声を堪えられなかった。
――楸瑛、初めてのお宅訪問。それは、至極和やかな晩餐で締めくくられたのであった。
あれ、洗いあいっこしてないよ・・・? まあそこは脳内補完で(お題台無し)
高校生だとやはり、幼くしてしまいますね。何処が彩雲国・・・みたいになってしまう。
けど、楽しい。