執務室に戻ると、もちろん誰もいない。回廊からの明かりがわずかに届く中で絳攸はひとつの燭台に灯を燈す。
  劉輝たちを追いかけようかとも思ったが、別れてから随分と時間も経ってしまった。それよりも待ったほうが早いかもしれない。それに――
  今この室を無人にするのは、不思議にためらわれた。
 
  いつの間にか、辺りから何の音もしなくなる。
  絳攸は劉輝の机案の脚に寄りかかるようにして、腰を下ろした。

 まもなく静蘭がやって来たのは覚えている。
  遅い、と文句を言って劉輝を迎えに行かせた。そして、袁一族の謀反の言質を取ったこと、御史台への指示などをした気がする。 そして彼らが去って、またそのまま一人、執務室に残った。
  ――どこか記憶が曖昧なのは、とても眠いからだ。既に深更である。

 

 


「絳攸!」
  呼ばれた声に、目を開けた。室に飛び込んで来た王が、駆け寄ってくる。
  動かない絳攸を心配したのか、その表情は歪められていたが、ところどころ煤に汚れていてどこか滑稽だった。
  思わず笑った。
「……御無事でなにより」
  だらしなく座ったままの絳攸の手を、劉輝はとる。
「絳攸も……どこか怪我はないか?」
「ない」
「投降してきた兵たちが血まみれだった時は、まさかと思ったのですよ」
  ふいに上から声がした。絳攸が見上げるとそこには静蘭と楸瑛。かすかに、部屋の中が明るくなってきた気がする。
「首尾はどうなった」
「兵たちは全て捕えました。今夜のうちに袁一派の要人達も身柄を拘束してあります。明朝、令状が取れ次第州吏と共に家財及び領地を押収する予定です。左羽林軍も午には帰還するとのこと」
「宮中警備の見直しは」
  もともと穏やかでなかった静蘭の表情に、更に苦渋が混じる。
「……黒大将軍の帰還後、すぐに」
  絳攸はそれを一瞥すると、劉輝に向きなおった。
「……疲れたな」
「奴らはそなたに手荒な事を?」
  劉輝が怪訝な顔をした。
「いや、慣れないことをした」
「どんな?」
「演技の真似ごとを少し」
「へえ、君が! ちょっと見てみたかったなあ」
  楸瑛が口を出す。それを静蘭がじとりと睨んで、彼は困ったように笑った。
「冗談だよ。心配したんだ」
「そうだぞ、心配した。追いかけてきてくれるものと思ったのに……こんな暗い所で座り込んでいるから、余は、」
  少しだけ不満そうにした劉輝に、絳攸は口元が緩むのを堪えられない。
  ――ほら、相手が劉輝なら、笑うのはこんなに容易いことなのに。
  汚れた頬に手を伸ばしながら、言った。
「待ってた」
「え?」
「あなたが、此処に戻って来るのを待ってました」
  指でごしごしと擦られながらも、一瞬きょとんとした劉輝の顔はたちまち笑み崩れ
た。絳攸の見たかったのはこの表情だ――そして、俺の上司は本当に綺麗な人だと、彼は思う。
「この場所にあなた以外が居座ることなど、許せなかったものですから」
「ああ。ありがとう、絳攸」

 気づけば、先程よりも更に室の中が明るくなっている。
  夜明けは、近い。

 

 

 

 

 

さらにおまけ

 

 とりあえず少し休もうと――絳攸を除いた三人は一睡もしていない――執務室を出て四人が歩いていると、静蘭が口を開いた。
「そういえば、捕らえた家来どもの中に、やけに絳攸どのに感銘を受けていた者がいたのですが」
  絳攸は首を傾げ、それからああ、と頷いた。
「ちょっと優しくしてやった」
  ……優しく?
  襲撃したのは奴らの方ではないかと、劉輝と楸瑛は首を捻る。
  しかし、絳攸は詳しく説明する気はないらしい。
「俺の演技も捨てたものじゃないかもな」
  一人でうんうんと頷いている。
「具体的には?」
  楸瑛は気になってその横顔を覗き込む。
「精一杯の笑顔で諭してやった」
  その言葉に、楸瑛は思わず温い笑みを浮かべた。
「精一杯の笑顔って……なに」
  振り返れば、劉輝も微妙な顔をしている。
「しかも絳攸の……」
「見たいような……」
「怖いような……」
  言葉にならない会話を楸瑛と劉輝が視線で交わしていると、絳攸が不敵に笑った。
「お前らが俺の敵になったら見せてやろう」
  二人はすぐさま首を振る。
「一生、結構です!」

 その様子を見ていた静蘭はそっと溜息を吐いた。

 


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