「?」
絳攸は吏部に一歩足を踏み入れ、首を傾げた。
いつもと同じ悪鬼の巣窟だ。並べられた机には書簡が積まれ、部下たちは入室した上司にも構わず仕事に専念している。その中で碧珀明だけが顔を上げたが、すぐに隣にいた年上の官吏に頭をはたかれ撃沈した。
しょっちゅう硯や筆記具が宙を飛ぶため、壁は汚い。家に帰れない官吏たちも汚い。
紙を捲る音だけが室を支配している。ぱらぱらという可愛らしいものではなく、ばさばさばさどさっ、である。
いつもと同じ。
だが、何処か違うような気もする。
絳攸は注意深く室内を見回す。
そして、一人の男に目を留めた。
部下の一人である。絳攸より年上だが、官吏歴は絳攸のほうが長い。
他の男たちと同様に無心に料紙へ文字を綴っている。無精髭の横顔はいかにもむさくるしいが、その瞳にはいつもと違う輝きがあるような気がした。
具体的にはよくわからない。ただ、その表情は悪鬼というのがそぐわない感じがすると思った。
――吏部には鬼が棲む。
それを成すのは体力と集中力の限界を超えた男たちの、それでも仕事に向かう執念だ。一説には仕事をしない尚書への怨念という話もあるが、どちらも精神の異常がもたらしたものに違いない。
だから、吏部吏は常に狂気じみた雰囲気を纏っている。
だが絳攸が見留めたこの男にはそんな雰囲気はなく、いっそ清々しささえ感じられた。
これはどうしたことか。勿論絳攸は、この男が鬼と化した姿を何年も見続けている。
「どうしたんですか侍郎。ぼさっとしてないでアンタも仕事してくださいよ」
一番近くにいた部下の一人が、うんざりしたように顔を上げた。
絳攸は本来の目的だった、手の中の新しい案件をその男の机の上に投下すると(彼がうげえと呻いたのは聞かないふりである。勿論)、屈みこんだ。
「なあ、あいつどうした?何かヘンだぞ」
絳攸が指さした先を認めると、彼がああと頷く。
「なんでも、子どもが生まれたらしいですよ。だからなんかハリキってる」
絳攸は口をへの字に曲げた。
「そういうものか?」
「そういうものらしいですよ。『護るものができた』って」
「ふうん」
何か考える様子の絳攸に、しかし男は気にすることなく手元の書類に目を戻す。
「まあ、あいつも及第するまでは奥さんに苦労かけたらしいですから、これからってとこなんでしょう。あんまりに幸せそうなんで俺らにアテつけられてますけど、またその反応が勝者の余裕ってやつで本当むかつくっていうか羨ましいっていうか」
俺なんか相手見つける暇もないのにちくしょー、と男が猛然と筆を走らせる。その横で絳攸はぽつりと口の中で呟いた。
「幸せ、か」
その日の夕方、何故か黎深が侍郎室にやってきて、引き摺られるようにして帰宅し
た。邸に着いてみると何のことはない。百合が戻って来ていたのである。
「百合さん!お帰りなさい」
「絳攸ただいま!元気だった?」
出会い頭に百合が絳攸を抱きしめる。それにもどぎまぎしたが、さらに黎深が面白くなさそうな顔をしたのが目に入り、絳攸は慌てた。
「ゆ、百合さん、ちょっと、恥ずかしいです、」
けれど百合は意に介さない。
「なに言ってるの。久しぶりに会うかわいい息子を抱きしめて何が悪いの。それとも他に抱きしめてくれるひとができた?なら紹介してね?」
「いやそんなことは一言も・・・」
二の句が継げない絳攸の隣りでフンと鼻を鳴らすのが聴こえた。
「くだらん。腹が減った。夕餉にするぞ」
そして、久しぶりに食卓を三人で囲んだ。
それは楽しいものだったが、黎深と百合の揃った姿を見ているうち、絳攸の中である疑問が生まれる。だが、訊いて良いものかどうか判断がつきかねて、もやもやと胸の内にわだかまっていた。
しかし、一方で絳攸には一つの確信もあった。
「絳攸」
黎深が食後の茶を手にしながら不愉快そうに呼ぶ。
「言いたいことがあるなら、言いなさい」
――この人には隠し事が出来ない。だから、言うしかないのだ。
「どうかした?」
百合が首を傾げる。
絳攸は意を決して口を開いた。
「もし――もし、俺が『弟が欲しい』とか言ったらどうしますか」
百合が目を瞬かせる。
黎深は無表情だった。
絳攸は顔から火が出る思いがした。仕様がないではないか――誤魔化しても通じないのだから。
「ほしいの?」
「い、いえそういうわけじゃ・・・」
「絳攸みたいにうまく見つかるかなあ。どこかからもらってこようか」
なんでそうなる。しかし百合は真剣に考え込んでしまった。
「やっぱり兄弟がいた方が寂しくないのかな。でもどうかなー、兄弟に依るよね。あ、でも黎深のとこは成功、なのかな・・・」
「百合さん・・・」
絳攸の真意は別のところにあるのだが、百合の熱心さになかなか言い出せない。
「ほしいのか」
今度は黎深が口を出した。
「いや、だからそうではなくて・・・」
――そして絳攸は白状した。
部下の一人に子どもが生まれたこと。
彼がとても幸せそうだったこと。
本当は気づいていた。二人が子どもをつくる気のないことは。
だけれど、そういう幸せのかたちががあるのなら、と思わずそう考えた。
「――そう思っただけです。差し出がましいことを申しました。忘れてください」
結局は、絳攸が口をはさんでいい問題ではなかった。
ぱらり。黎深が扇を開く音がした。
「子どもが欲しいなら自分でつくれ――うちはお前で手一杯だ」
絳攸は顔を上げた。百合は笑っている。
「なに言ってるのかなあ。自分が子離れ出来ないくせに」
「なんだと」
「それに自分でつくれって。そしたら私達三十路でおじーちゃんおばーちゃんになるのね」
百合は笑っている――とんでもなく優しい貌で。
「絳攸の気持ちは嬉しいけど。私はこの三人家族で十分幸せよ」
「百合さん・・・」
「それにね」
「もし私達の子どもができたら、絳攸、どこかへ行っちゃうんじゃないかって思うのよ」
そうかも、知れない。絳攸は目を見開いた。
黎深に実の子ができたら、自分はもう不要だと思ってそうする可能性はある。――かなり高い確率で。
それが彼らの幸せのためなら迷わないだろう。
だけれどそうした後、自分は――きっと寂しい。
そして、百合はそのことに気が付いている。
「だから、この話はこれでおしまい。――お茶のおかわりはいかが?」
「・・・いただきます」
百合が手づから茶を注いでくれる。黎深が鼻で笑った。
「そんなに水分をとって夜中に厠へ行きたくなっても知らんぞ。一人で行けるのか」
「い、行けますよ!」
「絳攸、もし不安だったら起こしてくれてもいいからね?」
「行けますって!」
・・・百合も馬鹿にしているのだろうか。
「百合、甘やかすな!」
どうやら違うらしい。
「だって私、絳攸のおかーさんだもん。当然でーす」
「ふん。私にも、茶!」
「あーはいはい。うちに子どもは絳攸だけじゃなかったかなあ?」
「なにか言ったか!?」
「何でもありませーん」
絳攸は思わず噴き出した。どんなに時間に隔てられても、変わらない情景。
「何を笑っている」
愛しい家族。
「あ、じゃあ今日はみんなで一緒に寝る?」
これが自分の、
「お前たちがどうしてもというなら考えてやらんでもない」
幸福。
「それだけは勘弁して下さい・・・・・・」
おわり。
後日、吏部の例の男のもとに紅家当主代理の名で山のような祝いの品々が送られたのは、また別の話。