黎深の視界の向こうに、一人の子供が立っている。
その口が何かを言おうとして動いているのが分かったが、しかし、断片的にしか聞きとれない。
――いいんです。
(何がいいんだ)
――なれてますから。
(だから何をだ)
その子供の顔を見ながら、はて、黎深のよく知る子供はこんな顔の造形をしていたかと思う。黎深がその顔を見紛うはずがない。だが記憶の中のそれとは何処か違うような気もする。
(懐かしいような薄ら寒いような)
こちらに寄ってくればいいのにと思ったが、その子供は立ち尽くしたまま、動こうとはしない。
ならば、黎深の方から歩み寄るべきか。そう考えて、しかし黎深は首を振った。
(――この私が自分から?馬鹿な)
せめて、名前を呼んでやろう。そうしたらあの子供は自分の許に駆け寄って来ることが出来るから。
『こ……』
そして名前を呼びかけて、黎深はふと気づいた。その子供が、実は黎深を見てはいないことに。
その視線上に確かに黎深はいる筈だった。だが彼はもっと遠くを見ていた。
――またぼくはすてられるんですね。
やけにはっきりと聞こえた言葉。
映すべきものを持たない硝子の瞳は、境遇への失望か光を失って。
『絳攸!』
子供が、笑った気がした。
――だいじょうぶです。おいていかれるのは、なれてますから。
諦めたような、そして自分が不幸であることを忘れたようなそれは、黎深が一番させたくないと思っていた貌だった。
「黎深?」
牀台に横にならず、もたれかかったまま何やら魘されている弟に、思わず邵可は声をかけた。何時もなら、五十歩先の自分の存在まで把握して出迎える弟が、眼を覚まさないまま誰かに入室を許すなど珍しいことだった。
「兄上……」
朝陽が戸の隙間から僅かにのぞく部屋の中でも、目を瞬かせている黎深の目元に隈ができているのがわかる。ここ紅州の本邸に着いてからも眠れていないのだろう。
(相当に参ってるねこれは……)
だが、邵可にはどうしてやることもできない。黎深は何かを考えるように塞いでいる。それを溜息とともに見やって、邵可は立ち上がった。
「これから貴陽に発つよ。それを言いに来たんだ」
ぴくり、と黎深の方が揺れる。そして邵可と目を合わせぬままぼそりと言った。
「……私も貴陽に帰りたいです」
邵可はわずかに目を見開く。
「此処は、もう兄上の『帰る家』ではない。そして私にとっても」
「黎深……」
そして邵可は、胸に安堵の波が広がっていくのを感じた。
崩壊の危機に陥っている黎深の世界は、それでも大事なものを忘れてはいなかっ
た。昔から保護欲をかき立てられる弟ではなかったが、その性格ゆえに将来を危惧していたのは事実だ。
――しかし彼は、いつの間にか巣立つことを覚えていたのだ。
(なら、大丈夫かな)
世界は広くて、こんな私たちが存在を許されるくらいには優しくて、そして――とてもしたたかであることを君はもう知っているだろう。
その横顔に邵可は笑んでみせた。
「先に、貴陽へ帰るよ。どうか元気で。玖琅と仲良くね」
返事はない。だがそれに気分を害されることもなく、邵可は黎深の室を後にした。
以下、台無し後書き。
その時絳攸は元気に貴陽で駆け回ってるはずです。
ぜんぶ黎深の被害妄想(?)です。 (ここまで)
伯邑とか街の子供を見た黎深が絳攸を思い出したりしたらいいなとか。